宮本常一『忘れられた日本人』

未来社、1960年。岩波文庫、1984年。

 

世代間の感覚の違いというものはいつの世にもあるだろうが、僕ら以降の世代、十代の頃に携帯電話が普及して以降の世代というのは、とりわけ上の世代の生活感覚との間に深い溝があるのではないかとおもう。

 

僕の母方の祖父は瀬戸内の人で、晩飯に船を漕いで魚を釣ってくるような、海に近い生き方をしていた人であった。感覚の違いにまつわる印象的なエピソードがある。祖父は潮干狩りに行くと、アサリを手にとっては、触れたり少し耳を当てて音を聞くだけで「コイツは生きとる」「コイツは死んどる」と次々と選り分けていった。幼い僕にはそれが魔法のように見えていたものだが、もっと長く彼の傍で暮らしていれば僕にも同じ感覚が身に着いたのだろうか。

 

さて、民俗学者宮本常一の代表的著作である『忘れられた日本人』は、今や我々には遠いものになってしまった生活の感覚に満ち満ちている。この著作は著者が1939年から20年間に渡って日本全国を歩き、特に西日本の村々に生きる古老たちのライフヒストリーを克明に描いたものだ。今や失われてしまった生活の感覚が、ここには克明に記録されている。

 

僕にとって特に印象深い章を二つ挙げるなら、「女の世間」と「世間師」である。両方とも著者の故郷である周防大島の古老たちを題材にとったものだ。

 

「女の世間」では、村女たちの仕事であった田植えの場を中心にして、時に快活な猥談を交えながら行われる彼女たちの小気味よい労働ぶりを描き出している。田植えを中心とする村の労働の中で女性が男性に対して強い立場にあったことがよく分かるとともに、決して父親を中心とする「家」の権力のもとに彼女らが収まってはいなかったというのが面白い。結婚するにも世間を知っておかねばならないし、時には父親から逃れるために、女たちは連れ立って旅に出たりするのだ。

 

「昔にゃァ世間を知らん娘は嫁にもらいてがのうての、あれは竃の前行儀しか知らんちうて、世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけにのう、わしゃ十九の年に四国をまわったことがありました…どこへとめてもろうても芋ばっかり食わされての、それでもみな親切で宿に困ることはなかったんでありますで…」(110頁)。

 

女たちの間で、旅の道連れになったり出稼ぎ先を手引きするといった形で連帯があるだけでなく、彼女たちを泊める「善根宿」や農作業を手伝う「秋仕」としての雇用など、旅する女たちを支える有形無形の絆があった。と同時にこうした村女たちの生活からは、「女は娘としては父に従い、妻となれば夫に従い、子を育て家を守るのが日本の伝統的な家族の在り方だ」という保守主義の言い分が、意外と根拠に乏しいものであることがよくわかる。

 

「世間師」の章も非常に面白い。奔放で大ぼら吹きだがなぜか憎めない、旅から旅へ世を軽やかに渡っていくような人物のことを村ではそう呼ぶ。読めば必ず、知人の誰かがそういう人物として思い浮かぶのではないだろうか。ちょっと電車が遅れればすぐにイライラ、近所の保育園がうるさいといってはイライラ、従業員の態度が悪いといってはイライラ、そういう神経症的な人間が幅を利かすなかでは、こういった豪放磊落な世間師たちの姿を心に留めておくのが、精神の健康を維持するためには結構重要だろうとおもう。「この地方では冗談も通用しないような人は歓迎されなかった。そうした気風のみなぎっている中で長州征伐はおこされた」(220頁)というような何げない記述を読むと、精神的な風土の違いが歴史の推移に果たした影響への著者の鋭い眼差しにはっとさせられる。

 

「村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている」(214頁)。これは学校教育に対する鋭い批判としても読めるし、村の生活や老人に対する自身のイメージを問い直す契機にもなる。

 

僕にとってこの本は、村人たちの話す中国地方の方言を通じて、亡くなった祖父を鮮やかに記憶に甦らせるものだ。あなたは祖父母が辿ってきた半生をどれほど知っているだろうか。一度はゆっくり話を聞いてみてあげよう。必ず面白い発見があるはずだから。

2件のコメント

  1. 耳当てだだけでアサリの生死がわかるって聞いたことなかったな笑

    自分の先祖の話は確かに聞く価値あるかもね

    1. 僕らもかつて学校の授業で「総合」の時間があったと思うけれど、
      その中でもっとそういう探求ができれば良かったなァ…なんて思うね。

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