「批判」と「非難」という言葉は近年の日本において、もっとも混同されがちな言葉の一つではないかとおもう。そしてそれは、ものすごく不健康なことだとおもうのだ。
最近は「批判」というと、なにかネガティヴなイメージをもった言葉として響くのではないだろうか。「批判」はなるべく受けたくないもの、嫌なもの、と思われているのではないだろうか。例えばYoutubeの動画で、「誰にも批判を受けないサッカー日本代表のスタメン考えてみた」なんて題された動画をみるとそんな風におもう。
だけれど、「批判」と「非難」とは区別しなければならない。「クリティカル・シンキング」という言葉が決してネガティヴなものではないように、「批判」という言葉は本来建設的で、人と人とがともに生きようとするには欠かせないものだ。一方の「非難」はそれとは違って、「人の欠点や過失などを取り上げて責めること」をいう。「人を」「責める」というのが重要なポイントだ。「批判」というのが計画やアイデアなどの思考の産物を対象とするのに対して、「非難」はその人間そのものを対象にするのだ。
例えば。小泉進次郎氏が環境大臣として国連気候変動サミットに参加した際に、食事にステーキを頼んで物議を醸したことがあった。牛肉の生産のための牛の飼育が、温室効果ガスの排出の一因となっているというのがその理由だった。
実際に誰が何を言ったかというのは置いといて、これに対する「批判」の例はこういう言い方だろう。「あなたが食べたステーキを作るために、地球温暖化が進んでいる可能性がありますが、それについてはどうお考えか?」
一方で「非難」の例。「環境大臣のくせにステーキを食うなんて何を考えているんだ!」
この例えで分かってもらえると思うが、「批判」をすることは、相手と自分との認識や立場の違いを明らかにして、それを通じてお互いにより良い認識に至ろうとする行為だ。一方で「非難」のほうは、相手の人格を攻撃することしかしない。人間だから攻撃されたら腹も立つ。それでは互いに歩み寄ったりアイデアを出し合ったりする道は遠のいてしまう。
もう一つこの例から言えることは、ある言葉が「批判」になるか「非難」になるかは、その言葉を発する側の言い方にかかっているということだ。単に怒声を浴びせて自分が憂さ晴らしをしたいだけなのか、それとも本当に互いのことを考えて、相手と一緒に何かより良いものになろうと思っているのか。それが「批判」と「非難」の決定的な違いではなかろうか、とおもう。
最後に「批判」について、僕のお気に入りのエピソードをひとつ。どこで読んだか忘れてしまったが、ナチス・ドイツによる占領中のレジスタンス活動の末に銃殺されたフランスの歴史家マルク・ブロックに、確かこんなエピソードがあった。
彼の提出した学位論文「フランス農村史の基本的性格」は非常に素晴らしいものだった。それで先輩のある歴史家は称賛の意味を込めて、大要こんなコメントをしたのだ。「この著作が多くの人の批判を受け、半世紀後にはまったく時代遅れで無用のものとなっていることを望む」と。
「多くの人の批判を受ける」ということは、それだけ多くの人が彼の論文について真剣に考えてくれているということだ。そうした批判を通じて乗り越えられることではじめて、ある仕事は価値のあるものとして後世に残ることになる。「誰の批判も受けない」ということは、誰もそれに興味も関心もないということに過ぎない。
だから僕は「非難」ではなく「批判」を受けたいし、人に対しても「批判」的でありたいとおもうのだ。