「結婚式」について

親戚の結婚式と披露宴に出席してきた。

 

友人の結婚式に出席したことは何度かあるし、スピーチを引き受けたこともある。僕は結構、良い式だったかどうかを距離をとって眺めてしまうタイプだ。これは結婚式に限らず、あらゆるイベント事に対してそういう立ち振る舞いが染みついている。

 

良い式の条件というのは色々あるだろうけれど、何事も本質を外しては良いものにはならないとおもう。「結婚式」における本質的なものはなんだろう。それがなければ「結婚式」が「結婚式」として成り立たないような、本質的なもの。

 

家と家との顔合わせと結びつき?それも大事だろうけれど、全ての結婚で家族の同意が得られるわけではないだろう。だから家族不在の結婚式というのもあるだろうし、それがなくても結婚式は結婚式として成り立つはずだ。

 

友人たちの祝福?それもいい。だけどそれなら二次会でやりゃ充分だ。友人がいなくても式は式。それもやっぱり「結婚式」の本質とは言えないだろう。

 

一番本質的なのはやっぱり当事者同士の「誓約」にあるのではなかろーか。いかなる時でも互いを助け、尊重し、弱さを許し、喜びも悲しみも分かち合うという誓約。証人の前でそうした誓約を交わすことで、共にあることに倦んだ時に立ち返って踏ん張ることができるような、そうした土台を築く。そこんとこに、「結婚式」の本質があるんじゃないかな。

 

その誓約に心がこもっていないと、他がどんなに良くっても、茶番になってしまう。だから日本人がキリスト教式の結婚式を挙げて上手くいくのはなかなか難しいなとおもう。なんせキリスト教式であれば当然キリスト教の神に誓いを立てるわけだが、そもそも神を信じていない、というか神について思いを巡らしたこともない人が大部分なのだから、そのぶん誓約を厳粛にするのが難しい(もちろん上手くいく式もあると思うけどね。キリスト教式の結婚式を挙げた方、どうか気を悪くしないで)。

 

こういう話をしたときに僕の友人は、「御神木にでも誓いを立てたら良いんじゃない?」なんて冗談めかして言っていたが、結構正鵠を射た意見だとおもう。信じてもいない神に誓いを立てるよりは、触れることのできる具象的な存在にかけて誓ったほうが、誓約に重みが増すというものだろう。

 

…なーんてことを考えていたのだが、同僚の女の子が「私はどんな式でも泣けちゃいます!」と力強く言い切ったので力が脱けた。それはそれで羨ましい。こんなことを考えている僕よりも、その子のほうが間違いなく先に結婚するのだろうな。

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