1972年、講談社文庫。新装版2004年。
朝日新聞にも記事が出ていたが、先週6月26日で、水俣病が公式に確認されてから65年が経った。戦後日本で甚大な被害を出した四大公害病の一角として、水俣病という病名くらいは誰しも聞いたことがあるだろう。不知火海を挟んだ水俣市の対岸、天草市に生まれた著者によって書かれた『苦海浄土』は、水俣病の存在を世間に知らしめた書として有名である。
いや、こんなありきたりな紹介で分かったつもりにならぬよう、心されよ。解説で渡辺京二氏が書いているように、公害病を世間に知らしめたといっても、この書は公害の悲惨を描いたルポではないし、有機水銀を海に流した企業を告発した怨念の書でもない。そうしたものとして書かれていたなら、「浄土」という語を書題に入れはしないだろうし、数々の賞を受け読み継がれてくることもなかっただろう。
形式の面からみると、『苦海浄土』ではいくつかの叙述形式が効果的に混ぜ合わされている。著者の目線から患者の姿を描く。患者自身に方言で生き生きと語らせる。そこに挿入される医師の報告書や法律文書の機械的で淡々とした調子が、患者たちの生きた心と身体が被った病魔とそれによる苦悩を際立たせる。
患者自身の語りのうちでも、特に第三章「ゆき女きき書」は本書の白眉とされている。40代の働き者の女性、坂上ゆきによる語りの体裁をとった章である。
「人間な死ねばまた人間に生まれてくっとじゃろうか。うちゃやっぱり、ほかのもんに生まれ替わらず、人間に生まれ替わってきたがよか。うちゃもういっぺん、じいちゃんと舟で海にゆこうごたる。うちがワキ櫓ば漕いで、じいちゃんがトモ櫓ば漕いで二丁櫓で…」(185)。
方言で語られることで、著者による叙述の言葉が坂上ゆきの生きた言葉となるのだが、しかしよく考えてみると何かがおかしいのだ。有機水銀中毒の症状のなかには発話障害も含まれる。実際章の初めのほうでは、そうしたゆきの苦しい発話が文字化されている。
「『う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。』彼女の言語はあの、長くひっぱるような、途切れ途切れな幼児のあまえ口のような特有なしゃべり方である」(149)。
にも関わらず、坂上ゆきの発話は時には8頁にも渡って滑らかな言葉で記述されている。ともすると気にせず読み進めてしまうかもしれないが、発話の不自由な患者がそれほど長く淀みなく話し続けることができるものだろうか?
タネを明かすと、こうした患者自身の発話は、実際に話されたことを録音したりしたものではない。聞き書きどころか、「石牟礼氏はこの作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことなどしていない」のだ(解説、369)。この作品はルポルタージュではないというのはそういう意味である。
だからといってこの文章をでっち上げだとか、著者の空想の産物だとか言ってしまうことはできない。あるとき解説の渡辺氏に、患者の発話はもしかして実際に語られたものではないのか?と尋ねられ、著者はこう答えたという。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。
こんな言い方が決して傲慢に感じられないほどに、著者と水俣病患者たちの間には確かに共有された生活の基礎がある。方言のニュアンスはもちろんのことだが、何よりも不知火の海を中心とした生活の感覚が。著者は坂上ゆきに、例えばこんな風に語らせる。
「海の底の景色も陸の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい…どのようにこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の湧く割れ目の必ずある。そのような真水と、海の強い潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさの、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか」(167-8)。
生活のなかにある風景、香り、音、手触り。土地と結びついた生活感覚とでも呼ぶべきもの。おそらくは大多数の人がほとんど意識化することなく暮らしているこうした感覚に対する、身震いするほど鋭い意識を著者は持っていて、それを言語化することで、同じ感覚を共有している患者たちと著者とを結ぶ確かな紐帯が生まれてくる。そうした感覚を強烈に意識しているからこそ、水銀で汚染されてしまった不知火の海は著者にとって「苦海」であり、「浄土」でもあるのだろう。
こうした生活への感覚を、自分は少しでも持っているだろうか。あるいは持つことができるのだろうか。故郷のこと、自分が暮らす町のこと、自分はどれほど知っているのだろうか。原発事故にしても沖縄の基地問題にしても、こうした生活感覚の破壊を含む「故郷を喪失する痛み」まで視野に入れた上で、語られなければならないはずである。