阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』

平凡社、1974年。ちくま文庫、1988年。

 

僕がヨーロッパ史、なかでも社会史に強く惹かれていくきっかけとなった本。繰り返し何度も読み直たし、いろんな人にとりあえず押し売りしている。友人に差し上げて、自分は改めて買い直したことも何度かあった。

 

「ハーメルンの笛吹き男」といえば、子ども向けの絵本として知っておられる方も多いだろう。鼠害に悩まされるハーメルンという小さな町に、色とりどりの服を着た「笛吹き男」がやってきて、鼠を退治してやるという。彼が笛を吹くと鼠たちは彼についてゆき、町から消えてしまう。ところが町の人は彼に謝礼を支払うのを拒んだので、もう一度彼が笛を吹くと、今度は町の子どもたちが彼についてゆく。そして子どもたちは不思議な国へゆき、時間を忘れて楽しく遊ぶ…といった筋立てだ。

 

著者の阿部謹也はドイツ、ゲッチンゲンの文書館で古文書の山に埋もれて調査をしているなかで、この物語の核にある事実を突き止めようとした研究者たちの書に出会い、彼自身もこの物語に引き込まれてゆく。

 

僕たちが絵本で知っているような物語は、主として19世紀の詩人ブラウニングやグリム兄弟が収拾したものがベースになっている。ところが世紀を遡るごとに、伝えられる物語は飾り気がなくなってゆき、元の事実に近い形へと戻ってゆくのだ。まずブラウニング以前には連れてゆかれた子どもたちが過ごす時間については語られず、「鼠捕り男=笛吹き男が130人の子どもたちを連れ去った」となる。さらに遡って16世紀以前のものでは「鼠捕り男」という要素が消えてしまい、「笛吹き男が130人の子どもたちを連れ去った」。14世紀までいくと、「130人の子どもたちが消えた」。そうして僕たちは、1284年6月26日にハーメルンの町で起きたとある事件に行き着く…

 

古文書や研究文献を綿密に紐解きながらも、時を遡行して伝説の核にある事実に迫っていく筆致はミステリー小説のような面白さがあって、みるみる引き込まれてしまう。はじめて読んだとき、自分が知っていると思っているものを自分は決して知っておらず、知っていると思っているものも歴史を通じてみると何と違って見えてくるのだろう、と衝撃を受けたものだ。そうした体験、既知のものをひっくり返されてしまうような体験がもたらす知的な興奮が、僕が歴史に取り組んでみようと思った大きな理由の一つだった。

 

だが、この本が1970年代に、網野善彦らとともに「社会史ブーム」の火付け役となった理由は、そうしたミステリー的な面白さだけにあったのではない。

 

歴史家である著者は、「130人のいとけない子供たちが行方不明になったという、異常な事態の背後にある当時のヨーロッパ社会における庶民の生活の在り方」に関心を向けてゆく。「130人の子どもたちがなぜ消えたのか」については様々な説がある(東方へと植民事業に出た、遭難した、戦闘で殺された、など)。そのどれが真実に近いかを検討するには、事件の舞台であった都市ハーメルンのこと、親たち=都市民たちがどのような状況にあったかということ、中世の子どもというのがどのような境遇にあったかということ、そして笛吹き男という存在はどのような意味を与えられていたのかということ、こうした背景をまず知らねばならない。

 

ハーメルンの物語を媒介にして、著者はそれまでの歴史学ではほとんど取り上げられることのなかった、「民衆の日常生活とその思考世界」へと分け入っていく道を切り拓いていくのだ。それを通じて僕たちは、あたかも子どもたちを失ったハーメルンの大人たちの悲嘆と苦悩に手を触れるかのような感覚を覚えるのである。

 

歴史を通じて人間の在り方に迫ろうとすること。人間の在り方が歴史を通じてどう変化してきたかということ。阿部謹也の著作はどれも「人間」に触れ理解しようとする意志に貫かれている。彼が史料の向こう側の人間に、手を差し伸ばして触れようとするのが目に見えるかのようなのだ。そうした「身振り」そのものが、社会史というものの正体だったのではないだろうかと、読み返して改めて思うのであった。

2件のコメント

    1. 牛の記事にも需要はあるが、僕としては結構こういう記事の方を書きたかったりする。
      そのうちゲスト投稿でもお願いしようかね。笑

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