角川文庫、1970年。
イザヤ・ベンダサンというのは、評論家の山本七平のペンネームであると言われている。山本七平には『「空気」の研究』や『日本人の人生観』といった著書があり、一貫して「日本人」とその文化について考えた人だ。その山本が、ユダヤ人の立場に(偽って)立ってみることで、その立ち位置から日本人がどういう人々なのかを眺めてみた本が『日本人とユダヤ人』である。
ベンダサンのユダヤ人や聖書についての記述には誤りも結構あって、それを事細かにあげつらわれたりもしているが、この本の面白さはそういうところにあるのではないとおもう(もちろん、記述が間違っていても良いってわけではないよ。間違いは無いに越したことはない)。この本が本当に語りたいのは「日本人」についてであって、この本の面白さは、「日本人」が当たり前だと思っている所作や思考回路がどのような点で独特かと言うことを見抜く際の、本質を一撃で突くような著者の鋭さ、妙な説得力にある。そしてそういう点が見えてくるのはやっぱり、不完全にではあれ「ユダヤ人」という立場に立って眺めようとしてみたからだと思うのだ。
例えば、新聞の人生相談を取り上げた箇所がある。人生相談は「悩みを語り、相談者に答えを与えてもらう」というのが基本の構造だ。こういうものの考え方は日々の安全について真に不安を覚えたことのない日本人に特有のものだとベンダサンはいう。人生相談の回答のなかで一つだけユダヤ人の考え方にかなうと思われたものは、「あなたが考える解決策を全部書いて送りなさい、ダメなものを×印で消して返送してあげる」というものだった。
ユダヤ人にとっては、明日がどうなるかは絶対だれにもわからないので、明日の生き方は、全く新しく発明しなければならないのである。生き方を発明するのも、機械・機具を発明するのも原則は同じで、可能な案をまずたてねばならない。そしてその案の中から、珍案愚案を一つずつ消して行き、最後に残ったもので生きねばならない……議論とは何十という珍案・愚案を消すためにやるのであって、絶対に、「思いつめた」自案を「死すとも固守」するためでないことは、各人自明のことなのである(32~33頁)
無論前半部のような生き方を全てのユダヤ人が実行しているとは限らないが、それは割とどうでもよい。面白さは後半部に、「日本人」の議論の仕方のまずさを突くところに詰まっている。海外で暮らした経験があると、自分も含めて日本人の議論の下手さは本当に身につまされる。どうも日本人は議論というと構えてしまって、自分一人で水も漏らさぬ論理を築き上げて、相手を屈服させなければならない、と考えているように見受けられるのだ。「論破」とかいうしょーもない言葉をすぐ口にしたがるのも同じ理由によるとおもう。
だけど議論は一人でやるものではない。ベンダサンが言うように、それは「誰かとともにより良い選択肢を選び出す」ためにやるものだ。相手を論破したと得意顔をするのはとても不毛なことで、それは実のところ自分も相手も議論する前と何も変化していないということに過ぎない。勝ち負け決めるだけなら議論などせず、じゃんけんでも殴り合いでもすれば良いのだ。議論をする意味は、勝ち負けとは関係がない。議論は、誰かとともにより良い案に辿り着くことを目指すときに、はじめて意味があるのだから。
こういう「日本人」についての鋭い分析が、『日本人とユダヤ人』にはそこここに詰め込まれていて、油断ができないのだ。他にトピックだけ挙げれば、「地震・雷・火事・おやじ」という言葉、「すき焼き」という語に隠された日本人と家畜の関係、「隣り百姓」という行動様式、などなど。
先に述べたように、ユダヤ人に関するエピソードなどはちょっと注意して読まなければならないのは確かだ。それでも彼の日本人論は、自分が当たり前だと思っている思考や振舞いをちょっと距離をとって眺めるための、そうして自分のことをより良く理解できるための、魅力的でユーモアのあるレンズを与えてくれるのだ。